パンの耳食べる方の裏方。

物書きの端くれの遊び場です。ゆるりとお付き合いください。

ニット

『ウィンナーコーヒーなんてコーヒーあるわけないじゃない。だってコーヒーにウインナーが入ってるわけないもの。』

 

 聳え立つビル群に遮られる空を見上げ、どこか窮屈さを覚えた。どこまでも自由で、どこまでも高いはずの空が、いつの間にか僕にはどこか限定的で、束縛にも似た閉塞感の象徴にまで陥ってしまっていた。本来のあるべき空の姿は、とうに忘れてしまっていたのだ。


 柄にもなく、空を見上げて物思いにふけり、いわゆるおセンチになってしまっていた僕の携帯電話に、訪問先が神保町から錦糸町に変わったという旨の電話が入った。二つ折りの携帯電話をポケットに入れて在来線に乗り込む。クーラーの良く効いた、電子公告の流れる車内は静かだった。

 

 


 錦糸町か、気分はあまり乗らないな。

 

 


 東京は何年かぶりの大寒波で雪と表現するには優しすぎる空からの礫が連日降り注いでいる。こんな日に出歩く二足歩行生物はイエティぐらいで十分だ。そんな風に軽くついたため息でさえ、凍ってしまうのではないかと軽く笑った。凍った路面は、履き潰した革靴と相性が悪い。

 

 

 なんて事のない商談が終わり駅へ向かう帰り、タイミング悪く振ってきた雪から逃げるようにして喫茶店ニットの扉を開く。

錦糸町ハイタウンを右手に見ながら京葉道路に当たるところまで進み、左手に見える喫茶店だ。駅から向かえば、駅前の交差点の対角線にある。

 

 

 今日はついてないな。

 

 


 そう心の中で呟くと暖かい風が僕の髪を撫でた。橙色の照明と、歴史を感じる革ソファ。タバコの匂いと赤い絨毯が、加速度的に近代化していく東京から取り残されているように感じた。それがどうしてか、切なく寂しい気持ちになった事を、窓際へ案内され、水とメニューを渡されたあと、東京へ出てきた当時に買った色あせたコートを椅子にかけた時にはっきりと理解した。

 

 


 取り残されているのは自分も同じなのだ。

 

 


 資本自由化の渦の中で産声をあげ、石油ショックを学生時代に経験した僕は、18の頃に上京した。まだ東京は路面電車が走っていたし、夏になると団扇を仰ぐ余裕もないほどの密度で動く車両の中は、煙草の匂いが充満していた。空気は今よりも悪かったが、人も今より悪かった気がする。働いてすぐにプラザ合意がなされ円高不況に陥り、二度転職した。加速度的な発展を、その渦中で、いわば加速器的な役割を担ってきた僕が、到達点ともいえるこのトウキョウに置いて行かれている。

 

 


世代交代かね。

 

 


 二つ折りの携帯電話を見ながら、そろそろスマホに変えようとして呟いたこの一言も自分に言い聞かせているようだった。確かに東京は変わった。あの激動ともいえる数十年が、自由であるはずの空を変え、窮屈であったはずの車内を変えた。そして、あの頃最先端だった携帯電話まで変わりつつある。いや、もはや変わってしまったのだろう。僕の感覚と、若者の感覚はおそらく10年の開きがある。僕はもう、このトウキョウを加速させることもできない。車輪の錆となり、すぐに消えていく運命だ。

 


 ふと窓の外を見ると傘をさす母親に連れられた2人の子供が僕の目を引いた。暖かそうなコートをまとった母親とは対照的に二人の子供は短パンを履いて降り出した雪にはしゃいでいる。

 

 そんな姿を見ながら、水を一口含むと僕の脳内に一枚のモノクロ写真が浮かぶ。背景は実家の裏にあったブランコとシーソーだけの質素な公園で、ちょうどあの子供のように二人の子供が、雪の中はしゃぎまわっている。僕の投げた雪が女の子の顔面に当たり泣きべそをかいていた。

 

 その子は大人ぶった女の子で、いつも僕を小馬鹿にしていた。高校に入るまではその公園で僕と彼女はよく二人で夕食までいろんな話に花を咲かせていた。


彼女の名前はなんだったか。そんなことも忘れてしまった。

 

 

 

僕はメニューの中にウィンナーコーヒーを見つけて軽く笑った。

 

 

 

「ウィンナーコーヒーなんてコーヒーあるわけないじゃない。だってコーヒーにウインナーが入ってるわけないもの。」

 

 

いつも子供扱いをする彼女に見直してほしくて、好きなコーヒーなんて話題を引っ張り出した時の話だ。僕が、ウィンナーコーヒーが好きと必死についた嘘を彼女は一蹴した。

 

 


僕は手を上げて店員を呼ぶ。「紅茶を一つ。アールグレイで。」

 

 

 


「そもそもコーヒーって好きじゃないの。私はもっぱらアールグレイね。知らないでしょ?紅茶なのよ。」

 

 

 

彼女のいたずらな笑顔が窓の外に映ったような気がした。

 

 

 

僕は小さく、「アールグレイはイギリスの公爵の名前から来ているんだよ?知らないでしょ?」と反論した。

 

 

大人気ないその一言は、思い出に溶ける事なくただ変わり果てたトウキョウの錦糸町に響き渡るどころか、目の前の水の波紋になることもなく、ただそこにそうっと現れて、誰にも気づかれることもなく消えていった。

 

 

 

 

 

 

大寒波は、あと数日続く予報だった。

 

 

 

 

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