パンの耳食べる方の裏方。

物書きの端くれの遊び場です。ゆるりとお付き合いください。

ゴゴ

「退屈よ。私にとってはクリスマスも正月も、自分の誕生日だって退屈だもの。」


 夜空を見上げる彼女は、「退屈そうだね。」という僕の言葉に、機械的に答えた。僕にはベランダで空のある一点をじっと見つめている彼女の沈黙として現れた絶対的主張が、僕を試すための実験的沈黙にも感じられた。『この「沈黙」をあなたはどう受け取り、どう答えるのか』を彼女はその「沈黙」という、ある意味で最も有効な手段をとって僕を試しているのだ。
 その問いに対する、僕の「退屈そうだね。」といういたって平凡な答えに、非凡な彼女がそう機械的に答えるのは必然であった。今日のこの時間を共有する僕なんかより、常夜共にする夜空のある一点のことの方が彼女は重要であるかのように、その視線はまっすぐ、それでいてどの銀河よりも煌めいていた。


「僕にはそうは見えないな。君はいつも自分の世界で輝いているように見えるけど。」


 今考えれば、この言葉はいたって僕らしくない発言だった。僕はいつだって相手の心理を伺いながら発言をしてきた。彼女がこんな言葉をかけられてよく思わないことは容易に理解できるのに、僕はどうしてかその言葉を自然と、それこそ彼女が放った言葉のように機械的に、彼女の方をちらりとも見ないで呼吸をするように吐いたのだ。
すぐにわかった。僕にとって空気を吐くように出たその言葉が唯一の反撃であり、唯一の本音だったと。しかし彼女は絶対的沈黙を続けた。その沈黙は、僕の言葉の本意を理解したうえで僕の弱さのすべてを包み込もうとする残酷な優しさを意味していた。僕は決して、彼女を文字通り振り返らせることはできなかったのだ。
 車道沿いの僕のアパートが時折走る車のヘッドライトに照らされるたびに、彼女の横顔に色が帯びる。色彩が躍るその一瞬、僕は彼女と最初にあったときのことを思い出した。

 

 僕が百万遍知恩寺で行われた古本市の帰り、何冊かの哲学書と、研究用に古典を手に入れた帰りであった。いびつに膨れ上がったリュックサックの重さに耐えながら空を見上げるようにして歩く僕は、書籍探しに酷使した眼と脳みそを休ませるため立ち寄った喫茶店ゴゴで彼女と相席になったのだった。「あら、ずいぶん大きなリュックサック。」と記憶上の彼女が煙草をふかしている。


 入り口を正面に、左手にカウンターが五席ほど、右手にソファ席が二つしかない狭い喫茶店だった。割烹着を着て笑顔をこぼす人の好さそうな女将さんが、せっせと研究器具のようなものでコーヒーを入れていた。手狭な通路を五歩ほど進み、唯一開いていた奥のソファ席に腰掛けたとき、正面に座っていたのが彼女だったのだ。


黒い髪を短くそろえ、髪の色と同じ漆黒の装いが大きな金色のピアスと、赤いルージュを際立たせている。その色合いが、彼女の白い肌をより鮮明にさせ、その輝きは鮮明に思い出すことができた。そんな彼女が、ムズカシイ顔をしながらシェイクスピアなんか読んでいるものだから、気にならない理由が見つからない。「だめだ。全然わからない。」そうやって乱暴に投げられたシェイクスピアゲーテをはじめとする古典文学が彼女の目の前に山となっていた。「よくこんなに名著だけを集めましたね。」という疑問に「私、文学はさっぱりなの。だからある人がこれだけは読んどけってよこしたのよ。けれど、こんな本、私の人生の役には立たないみたいね。」と答えた彼女の声は、すうっと僕の心底に沈み込み、今でも僕は取り出すことができるだろう。そんなやり取りの後、喫茶店の角のテレビを見つめる彼女の横顔に僕は虜になっていた。長いまつ毛、滑らかな鼻筋、艶やかな唇、白い肌、僕の視線を支配する彼女のすべてがいとおしく、それでいて憎らしくもあった。そんな彼女の印象的な横顔が、今まさに目の前の彼女と重なったのだ。

 

「たばこ、もらえる?」

 

 僕は机の上にあったセブンスターとライターを彼女に渡した。「ありがとう。」に軽くうなずいた僕は「お茶でも」と冷蔵庫へ歩く。

 


「ねえ。私、ずっと退屈なの。」

 


「そうだね。」


 彼女の退屈に二つの意味があることを、僕は知っている。一つは口癖のようにただ時間的空白を埋めるためのもの。もう一つは、自己防衛的な、心情的空白を埋めるためのものである。この時の「退屈」は後者の意味合いが強いことを僕は確信していた。「そうかな?遊びのようなものだから分からないけど。でも退屈しのぎにはちょうどいいの。」そういって笑った彼女の声が、僕の心の底から再生された。その言葉は、彼女の描いた作品に対してはなった僕の「すごいですね。」の返答だった。奇しくも彼女と僕は、とあるガレージで再会したのだ。


 初めての出会いから二週間がたったころだった。喫茶店の出会いで一目ぼれをしたと言えども、僕は彼女を引き留めることも、ましてや連絡先を聞くこともしなかった。いや、その一時の出会いと別れがもたらす偶発的で、感傷的な時間に美学を感じる感性は持ち合わせてはいなかったし、彼女を見逃してもほかにあてがあるというわけでもなかったのだから、できなかったというのが正しい。ただ単に勇気が出なかっただけだ。
その日、僕は友人に頼まれて北大路にあるというガレージに届け物をしに行った。友人の先輩が文芸賞の制作に向けて缶詰めになっているというそのガレージで、先輩の恋人として彼女が現れたのだった。

 ガレージの中に迎えられ、恋人と紹介されたとき、僕には悔しさの波が押し寄せ眩暈を催した。しかしその後、彼氏という先輩の作品を読んで納得という大波が、どこか屈辱的とも感じていた僕のやるせない感情を飲み込んでしまい、二人の関係を至極当然のことだという風に理解した。海の底に沈んだ感情は、地底火山のように時々ぐらぐらと微動するだけで、感情として表面化するほどの大きな起伏は起こすことはなかった。

 
 彼女は友人の先輩とこのガレージを共用しているらしく、芸術大学の卒業制作に向けて彼女も同じように缶詰めになっているということだった。彼女は大きなキャンバスに様々な色の絵の具を重ねていた。服や手をめいっぱい汚しながら限られたキャンバスに最大限の自分をぶつける彼女を見て「すごいですね。」といたって凡庸な言葉が口から洩れた。「そうかな?遊びのようなものだから分からないけど。でも退屈しのぎにはちょうどいいの。」と初めて見せた彼女の笑顔で、汚れた手も服も含めた彼女のすべてが一つの芸術作品となり僕の五感を奪った。素直に、彼女に憧れ、そして尊敬さえした。

 

 

 


「私は、ただ退屈をしのいでいただけ。」

 

 

 

「そうだね。」

 

 


お茶を彼女に渡して、僕はまた部屋の布団の上に座った。夜風が窓から忍び込み僕の肌を刺すようにして消えていく。もう夜は冷えるのか。布団の上には、僕と彼女が脱ぎ捨てたものが乱雑に散らかっている。

 

 


「寒くない?」

 

 


「うん。」

 

 


彼女は、今夜一人で鴨川のほとりを歩いていた。

僕はたまたま彼女を見つけると彼女の「飲みに行かない?」との誘いを受けて彼女と夜の木屋町へと繰り出したのだ。そこで会話したことは取るに足らない、学生同士の談笑であり、愚痴であり、詭弁であった。そして、そのまま彼女と僕は、すべて自然的な流れで、僕の下宿先へと向かった。特にこのことに関して言葉を交わさなかったが、道すがら終始彼女は、この世の退屈とそれを埋めるためにしてきたことを僕に話した。

 

 

僕は初めて、彼女の弱さを見たのかもしれない。

 

 

僕は知っていた。

 

 

なぜ彼女が鴨川を一人で歩いていたのか。

 

 

僕は知っていた。

 

 

彼女のいう退屈という言葉の意味を。

 

 

僕は知っていた。

 

 

彼女がなぜ僕と寝たのかを。

 

 


 彼女は振られたのだ。若き作家志望であり、友人の先輩であり、僕の恋敵とも呼べる才覚溢れる彼に、振られたのだ。
彼女は交際も退屈しのぎだったと自分に言い聞かせているのだ。彼との交際は単なる退屈しのぎで、私は退屈しのぎの一つをなくしただけなのだと。

 

「退屈ね。」

 

 

 以前の僕であれば、その言葉を聞くたびに、天井が一段ずつ下がってきているような圧迫感を感じていただろう。なぜなら彼女が「退屈ね。」とつぶやくたびに、僕が彼女の退屈しのぎにすらならないことを聞かされているような気がしていたからだ。

 

 


しかし僕の心情は一貫して穏やかだった。

 

 


 街が、今日を準備し始めて車道が騒がしくなり始めたころ、僕は窓から注がれる朝日に照らされながら天井を見つめていた。彼女の入るシャワーの音を聞きながら僕は、考えを巡らせていた。

 

 

 彼女がシャワーから上がり、自分の服を纏うと乱れたシーツの上で寝転びながら一瞥もしない僕を見て「じゃあ、そろそろ帰るね。」と比較的明るい声色で言った。

 

 


「あ、うん。」

 

 


僕はそれを聞いて立ち上がり、ドアを先に開けた。

 

 


「女だくときくらい、ちゃんと爪切っておきなね。」

 

 


「あ、うん。ごめん。」

 

 


 彼女はそうして、颯爽と僕とはまるで何もなかったかのように帰っていった。僕はそんな彼女を見送って、扉を閉めた。少し紅潮する頬を抑えて。


 窓から入る冷たい風が僕を刺した後、机の上に広がる僕の世界をさらう。
床に散ったそれを見る僕の冷えた体を温めるように、日の光が僕を照らした。
しかし、その光は僕にはとってもまぶしすぎて僕は思わずカーテンを閉めてしまった。
僕はそのまま横になった。

 


僕は知っていた。

 

 

どうして僕が、穏やかであれたかを。

 

 


 僕は彼女の才能に、それを表現する彼女に惚れていたのだ。惹かれあう強烈な才能の前に僕は成すすべなく敗北したのだ。そして、その時、僕の中で彼女の存在が絶対的なものになった。それは決して崩れることのない、憧れであり、象徴であり、理想であった。

 
 僕は一つ浅いため息をついて、布団に入り、巡らせた考えを投げ捨てるようにして頭の隅に放り投げた。

 


僕はその日、夜になるまで眠り続けていた。


 

 目の前で崩れたそれらを、僕の中で、拾い上げても拾い上げても、僕の好きだった、あの憧憬的で、象徴的で、理想的で、絶対的であった彼女に作りなおすことが、どうしてもできなかった。

 

だから僕は、穏やかであれたのだ。

 

 

 


ただ僕は、彼女の才能に

 

 


自分で作り上げた彼女の偶像に惚れていただけなのだ。

 

 

 


目を覚ました時、街はもう眠りにつく準備をはじめ、街灯の洩れた光がカーテンの隙間から差し込んで、僕と、そして僕の作った世界の載った、今ではただの紙屑達をうっすらと照らしていた。